即興音楽ワークショップレポート
場において立ち上がるものの美しさとは何か
中脇健児 大阪芸術大学芸術計画学科准教授 /場とコトLAB 代表
まずこの展覧会の特徴は、障がいの有無という線引きを疑い、隔たりをなくす観点から、並列に展示していることである。しかし、本展は障がいの有無を巡る作品や展覧会をテーマにした「美術」をしていたとは思えない。むしろ、キュレーションや展覧会という手法を用いて「私たち(人間)はどうあるのか、どういった存在なのか」という問いに向き合った真摯な態度、もしくはその問いに対し「人はどのような状況でも等しく、関わり合いの中で生きている」という仮説をぶつけてきたように思えた。
というのも、主催である一般社団法人日本現代美術振興協会から関連企画の相談を受けた時「対話型鑑賞やギャラリートークなど手がけてきたが、違うアプローチがあるんじゃないか」と率直なモヤモヤを聞いたことが印象的であったからだ。ふりかえると、言語(論理的思考)の優位性や、作品の理解を促すといった啓蒙的な態度に対するモヤモヤだったように思う。その想いを受けて、関連イベントは、目の前にいる人たち、その場から立ち上がるものを大前提とすることを狙いにした。
前置きが長くなったが、それが鈴木潤を選んだ理由である。彼のプロフィールには「グルーブと音色にこだわる鍵盤プレイヤー。作曲家」とあるように、彼はその場にいる人たちに呼応し、だからこそ生まれるグルーブに心を尽くす。参加者が音に自身をチューニングしていくように、耳が開かれていくように、その環境(状況)作りを徹底して手がけるアーティストである。
準備も入念に音の反響や明かり、椅子や道具の位置一つとっても、何度も試行錯誤し、恣意的な要素と演出は排除するが、思わず参加者が手に取りたくなるような、思わず鳴らしてしまう好奇心のくすぐりをあちこちに散りばめる。しかし、参加しなくてもいい自由さも担保する。その環境づくりは2時間かけて行われ、プログラムの構成についても、一旦の流れは決めるが、動的に変えるポイントや分岐点もいくつも用意する。彼は音楽を誘導や扇動に絶対使わない。鈴木潤は音楽家として、その場のグルーブを創り出すために、様々な仕掛けと組み立てを盛り込んでいる。私のようなワークショップやファシリテーションの専門家から見ても、その構成は定型的な流れを踏まえるものの、その場の反応をキャッチする感覚と次の展開への見立てが的確だからこそ、参加者と音と自身が共鳴する場を実現しているのがよくわかる。即興音楽ワークショップとも称されるが、その裏側にある鈴木潤の周到な準備と気配り、気働きには注目すべきである。
プログラムの導入では、鈴木潤から簡単な挨拶の後、ハンガーに糸をつけただけのオブジェ(楽器?)を参加者に渡す。その糸を耳につけてもらい、ぶらぶらするハンガーを金属的なものや硬いものに当ててもらう。すると、その振動の音が自分の耳の中だけに拡張されて意外な音として聞こえてくる。見てる人には全くそれがわからないが、その人だけが音を楽しむことを体験してもらう。「自分しか聞けない音楽があるんだ、今日はそれを堪能するんだ」という心持ちを整える。次に手を叩き、手のひらの膨らみや叩き方で高い音から低い音が変わるという「身体の使い方と音の関係」に対して意識を向けてもらう。音を通じて、内省的思考や体の使い方、空間認知など、徐々に感覚をひらいていく(チューニングと表現したい)。
ほどなくして、参加者は鈴木潤が持ち込んできた楽器や、日用品に手を加えた鳴るオブジェ、民芸品などを各々に持ち、展覧会場を歩きまわりながら「ここにこの楽器が合いそう」という感覚で、点在している椅子の上に置いていく。その鑑賞体験はまさに不思議な感覚で、形や色や質感に「何となくこの音が合いそう」といったような、音から視覚を刺激され作品を味わう、というものだった。その後、私たちは一堂に集まり、一人ずつその配置された楽器を展覧会場を巡りながら鳴らしたい楽器だけを鳴らす。全部鳴らしてもいいし、どれだけ時間がかかってもいい。自分の順番が来るまではその様子を鑑賞する。ここが今回のハイライトであったように思う。親や支援者が、子又は当事者に同伴することもあるのだが、その時に「少しの介入もしないように」とアナウンスを徹底していた。これにより、参加者一人一人と作品の関わり合いが守られるだけでなく、人と作品が応答し合う様子が緊張感を持って鑑賞する時間に変わった。それこそ年齢や障がいの有無を超え、一人の人間として、その人が何を想って、感じているのかが色濃く伺え、その姿にある種の「美しさ」を感じずにはいられなかった。
鈴木潤は様子を伺いながら、時にメロディやアンビエントな音色を奏でる。会場全体がセッションをしているような瞬間も生まれれば、バラバラに自由かつ自律した音風景になることもある。そうする内に全員で展覧会場を自由に過ごすことになった。中には楽器を鳴らしながら踊る人もいた。
最後は散らばった楽器を戻してきてもらいながら「音の砂場」として自由に触る時間を味わう。もうこの時点で、ミュージシャン鈴木潤と鑑賞者という線引きは無くなっており、鈴木潤が弾いているキーボードを弾き始める人が数名群がったり、あれやこれとずっと何かの楽器を触っている様子が見受けられた。この時、鈴木潤は微笑むだけであった。彼曰く「この5分、10分のためにこれまでの流れがある」ということであった。それぐらい緻密さを有したプログラムであった。
さて、本展の副題「かかわりから生まれる芸術のかけら」である。かかわりから生まれるのは、作品だけではない。鑑賞も、それに関する関連プログラムも、そして私たち一人一人も、同じくである。芸術のかけらというが、かけらと言わず「かかわりあい」そのものに芸術性を見出すことは十分に可能であろう。もうみなまで言わんや、となってくれたら嬉しい。