美術展らしい美術展の由来
服部正 甲南大学 教授
作品を「美術」として見せる、いかにも美術展らしい展覧会だった。展覧会である以上、それは「美術」を見せるものであることに間違いはないのだが、何をどのように見せるかが主題化することの多い現代の美術状況において、この展覧会はそのような「美術」という制度に揺さぶりをかけることを、あえて選ばなかったように見える。それはもちろん、本展の企画意図でもあると想像するが、同時にそこには、企画そのものを超えた歴史的、構造的な理由もあったように思う。
会場の入口に掲出された説明によると、この展覧会は「障がいのある人の優れた作品」が「現代美術として」認識されることで、作品の「評価を高める」ことを目指しているという。一文でさらっと書かれているが、「現代美術」として認識されることと、「評価を高める」ことは必ずしも一連のプロセスとはいえない。この目標設定は、大阪府が長年にわたって「障がいのある人の」作品を「現代美術」として評価するという美術/福祉政策を進めてきたことを考えるとごく自然なことではあるのだが、そのことが今回の展覧会に美術展らしい美術展という印象をもたらすことになったのではないだろうか。
会場を見渡したところ、現代の多様な表現の中では、どちらかというと正統的な手法が主流をなしていたように見うけられる。ちょうど同じ時期に、会場となったスパイラルからほど近いOMOTESANDO CROSSING PARKで「Made in 青森」という展覧会が開催されていた。そちらのキャッチコピーは「表参道の交差点で、青森の現代アートに出会う」だったので、ほんの数百メートルの距離で二つの現代美術の展覧会が開催されていたことになる。両者を比較した時、屋外に設置された大型の映像作品やコンテナ車を極限まで満たした生け花など、より多様な表現技法が用いられているのは明らかに後者だった。それに比べると、「Exploring Ⅱ」の出品作品は壁に掛けて飾ることができる絵画や台座に載せて展示することができる立体物など、一見するとオーソドックスな形状の作品がほとんどだった。
ただしそれは、障がいがある人の創作するものにオーソドックスな技法を用いたものが多いということを意味するわけではない。現代美術の展覧会に足を運ぶと、これは本当に「美術」なのだろうかと考え込んでしまうような表現に出会うことも少なくないが、それにも増して、障がいのある人の表現行為にはアートの臨界点を極めるようなものも多い。たとえば、近年各地の展覧会やメディアで紹介されて注目を集めている井口直人の作品は、コンビニのカラーコピー機のガラス面に自分の顔を押しつけて単色や2色で複写したものだ。他にも、自宅や入居施設で自分自身のためだけに儀式のように表現行為を繰り返す人は数多く存在する。
おそらく、本展に正統的な技法を用いた作品が多いことは、障がいの有無とはあまり関係がない。それよりは「評価を高めていくことを試みる」という展覧会の趣旨と関係があると考えるべきだろう。美術作品の評価基準は様々だが、最も分かりやすいのは美術市場での評価だ。その市場での価値を高めるためには、作品が売買されなければならない。大阪府ではそのようなストーリーに基づいて、「カペイシャス」と呼ばれる作品販売促進の事業を展開してきた。そして、販売ということを考えた時、作品は手頃な大きさで展示しやすい形状であることが望ましい。かくて、展覧会の目的としてはやや特殊な「作品の評価を高める」という目標設定が冒頭で示されることになった。誤解のないように断っておくと、この展覧会自体は販売を目的としたものではない。しかし、現代美術の展覧会としては異例なほど端正な、「美術らしい」展覧会が現出したことには、この目標設定とこれまでの政策路線が作用していることは間違いない。展覧会のサブタイトルに「日常」という語が用いられているのは、その意味で象徴的である。それぞれの作り手の日常の中から紡ぎ出された作品群は、鑑賞者の日常に溶け込むこと、すなわち持ち帰って部屋に飾ることができるものばかりだ。
日本では、障がいのある人の作品がアール・ブリュットと呼ばれることも多いが、この展覧会はそのような特別な名称によって障がいのある人の作品を囲い込むことを回避し、現代の通常の美術活動の中にそれらを位置づける意図を持つものと読み取ることができる。フランスの本来のアール・ブリュットは、発案された1940年代半ばという時代背景や、発案者であるジャン・デュビュッフェの収集方針の故に、絵画や彫刻などのオーソドックスな形状のものが多い。アール・ブリュットという囲い込みを回避した本展が、その結果として現代美術よりもアール・ブリュットの作品群に近い形状の作品を展示することになったのは、考えてみると皮肉なことである。
とはいえ、物理的な形状がオーソドックであるということは、決して作品の表現に新奇性や独創性がないということを意味しない。選ばれた作品はいずれも力強く、高いクオリティを有するものだった。紙管を崩壊させることを巧みに避けながら隙間なく釘を打ち込んだ平田安弘や、厳格なルールに則ってカンヴァスを微細な円形で埋め尽くした森本絵利、紙片を1ミリ以下の細さで櫛状に切り刻んだ藤岡祐機らの超絶技巧には思わず息を呑むし、小林孝亘や舛次崇の静謐な静物画が示す対象の本質を見透かすような冷徹な観察眼には、作品をみる私たちまで射抜かれるかのような緊張感がみなぎっている。そこには確かに、現代を生きる創造者たちの生き生きとした表現が並んでいた。それゆえに本展は、決して奇をてらうことなく実直に「美術」と向き合い、つくるという行為を尊重する誠意に満ちたものとして受け止めることが可能だったのだと評価したい。