わたしの「かけら」
八巻香澄 東京都現代美術館 学芸員
美術は言葉だけでは伝わらないことを視覚言語で表現するものだが、その中でも現代美術は、そのテーマやモチーフや表現方法を選んだ理由に、現実に対する批評性を問われる。どんなに絵が上手くても、自分の情熱をキャンバスにぶつけるだけでは評価されない。そのため現代美術というジャンルで活動するアーティストは、作品を作るだけではなく、「これこれこういう意図で作っています」という効能書きを添える。いわば造形と「本人の意図・意思・批評性」とで戦うゲームなのだ。
それに対し、障がいのある人の表現(「アウトサイダー・アート」「エイブル・アート」「アール・ブリュット」など様々な呼称があるが)は、本人の意図はよく分からないことが多い。そもそも「作品」というつもりで作っているとは限らないし、日常の営みであったり、強迫的にせずにはいられないことだったりする。他の人に見てもらうことに喜びを感じる人も興味がない人もいるのだが、作者の側にいる人(家族や施設職員など支援者)が、この行為や表現にその人らしさが表れていると発見すると、「作品」として大事にしましょうということになる。その人を知るために、行為や表現を尊重して観てみようというゲーム。
近年、現代美術と障がいのある人の表現を一緒に展示することが増えている。上で述べたようにそもそも別のゲーム、いうなれば野球とサッカーを一緒にプレイしようというようなものなので、ルールの優劣をジャッジしてはいけないし、どちらかのルールだけが優先されてはいけない。しかし現実には、どうしても現代美術の方が偉そうにしてしまいがちだ。現代美術に対して新鮮な驚きを与えてくれるものを評価し、何を「作品」とみなすのかの決定権を現代美術の側が持っているという状況は、とても搾取的で暴力的である。筆者も、アトリエや通所施設などにお邪魔して障がいのある人の表現を拝見し、「作品」として解説を書くという仕事を何年もしていた。(本展に出品している何人かの方にも、実際にお会いしている)包摂しようする善意がそもそも搾取であるということに気が付くのは、自分でも辛い体験だった。多分この痛みを、障がいのある人の表現と現代美術とをつなごうとする人たちは、みんな抱えていると思う。
この展覧会「Exploring II」のキュレーションを担当している宮本も、痛みを経験して考え続けている人なのだろう。本展では4つのキーワードに沿って、14名のアーティストを並置している。入口のご挨拶パネルなどを除けば、「障がい」について触れた解説はなく、そのアーティストがどのようなバックグラウンドを持つのかに関係なく、すべてのアーティストが同等に扱われている。現代美術も障がいのある人の表現も、誰がそれを作るかによって規定されている言葉だが、それを敢えて出さないというのは、作り手ではなくて、受け手(鑑賞者)の方に意識をシフトさせる意図なのではないか。
そう感じるのは、宮本がこれらを「芸術のかけら」と呼んでいるからかもしれない。彼女はこの言葉を「表現の根源・きらきらと光る大切なもの」をイメージして名付けたという。芸術かどうかをジャッジせず、慈しむ心だと感じる。「アール・ブリュット」といった名付けを使用せず、「これも芸術」と現代美術のルールに無理やり乗せていくのでもなく、どちらのゲームのルールにも拠らず、ただ自分が日常の中で感じていることと照らし合わせて、目の前のものを丁寧に見ていこうとする態度。その時、作品は作り手ではなく、わたしたち受け手の元に帰ってくる。
スパイラルガーデンの、さざめく会話の声がするカフェの横の花道のような細長い空間に、アーティスト一人ひとりの「いとしきもの」が並ぶ。奥の吹き抜けの空間をぐるっと回ると、「手わざ」「ルーティーン」「文字をこえて」と題された小さなコーナーが続き、一周すると、勢いあまってまた一周。作り手が個人的な愛着や衝動や関心に基づいて作り続けているであろうこれらは、自分を投影しながら見ることができる。これはわたしの「いとしきもの」であり、わたしの「手わざ」であり、わたしの「ルーティーン」であり、わたしの「文字」なのだと感じる。自分の日常の少しのゲン担ぎやこだわりや癖(手癖も思考の癖も)を、少し距離をおいて眺める対象として「かけら」にすることができたら、それはどんな形をとって表れるのだろうか。この展覧会で「芸術のかけら」に出会うことは、誰か自分とは別の人の作品を他人事として鑑賞するのではなく、自分の日常の「かけら」を見出すための、旅の仲間を見つけることなのかもしれない。